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Kan Togashi | 富樫幹

・点や線の錯覚や円や三角や四角の死角に隠れし核を視覚に書くよう、果敢に感覚で掴んだ間隔を描く。

 (てんやせんのさっかくやえんやさんかくやしかくのしかくにかくれしかくをしかくにかくよう、かかんにかんかくでつかんだかんかくをかく。)

幾何への欲と意と、絵心琴触れた。

ウロコ、これを剥いだ私が家を視た。

残る何か、場所、軸、差を敷いて座る。

雲追い旋回、眺めは二点。線か意。

画、コンパスを差し何度か、どんな示唆を、

スパン越え。

いかんせん手には目がない。感性をも狂わす手。

意思を削除し、馬鹿になる。

この民を栄華した話題は折れ、心打たれ、フトコロ凍え、

問い解く、世の絵描き。

きかえのよくといとえごころことふれたうろここれをはいだ

わたしがいえをみたのこるなにかばしよじくさをしいてすわる

くもおいせんかいながめはにてんせんかいえこんぱすをさしなんど

どんなしさをすぱんこえいかんせんてにはめがないかんせいをもく

るわすていしをさくじょしばかになるこのたみをえいがしたわ

だいはおれこころうたれふところこごえといとくよのえかき

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-9月14日トビウキャンプ当日、

前日までの90%の雨予報は外れ、空は晴天、心地よい昼。僕はなにか絵でも描いていようと思って、キャンバスのある中庭に行くと、何か、黒い(人型の)存在が独り、木の彫刻の上に鎮座していて、これは今僕は不思議なものを見つけたと思い、あっけにとられる間もなくすぐにそれをスケッチし始めた。すると黒い存在は、それまで黙っていたのにその彫刻の上に立ち上がり不思議な動きを始めた。こんなところでバランスを取るなんてやはり普通ではない。

それから黒い存在は地に下りてきて舞ったり座ったり自らのあらゆるフォルムを試している。僕は動かれると描きづらいなと思いながらもデッサンを続けた。

僕の感じる描きづらさをよそに自由に動き続ける黒い存在。美しいフォルムだ。僕はその姿を夢中で捉えていった。

気づけば壁はそのシルエットで埋まり、空は暗くなり、存在は姿を消していた。

僕はこの不思議な体験とその絵を残せたことに多少の満足を覚えつつ、絵を残したキャンバス=壁をライトアップした。

体育館でのbananasのライブが終わり、辺りは静かになり、僕は自分の描いた絵を見ながら先の不思議な体験の記憶に浸っていた。すると、黒い存在が再び姿を現した。影を引き連れて。

存在と影は自らのシルエットと戯れるようにそこら中を舞っている。時間の感覚を、存在と影とシルエットによって見紛うような、そんな時空間。今日よりも前に足場をつくって高所で描いた絵にも影は悠々と届き、上下の絵は一時的に繋がったようにも見えた。黒い存在と影とシルエットと上の絵の色が一つの画面になって僕の目に映った。これは画期的だなんて思って写真を撮っていたら、今度はなんと白い存在がその中に入ってきたのだ。

白い存在と黒い存在は互いに黒い影を引き連れてやはり僕の残した絵と戯れているように見える。

時に一体化したり、時に巨大化して見ているものの目を騙している。

二つの存在は確かにそこで戯れそしていつの間にか消え、僕の絵は僕の描いたものでないようにも思えた。

僕が残した存在のシルエットに、今度は存在達がその影を残していったようだった。-

※当パフォーマンスにおける「黒塗り」について

500m展示一枚.jpg

ある一定の大きさを越えた横長の画面というのは、それだけで鑑賞者が時間をかけて見ることになるという特徴がある。

部分から部分へ視界を移動させて全体を把握することになる。

時間を使うという点では音楽や映像、アニメーションなどに近い特性を得られる。

しかし受動的にでも入ってくる音楽やそれらとは違い、

抽象絵画が特に有する、鑑賞者の能動性とともに成立するものという特徴は画面の中に留める。

小さな絵の中でも目を動かして見たり、

音楽を能動的に聴くことも当然あるが、

この場合は必然的に絵画を時間軸のもとに鑑賞するものになる。

この鑑賞者に与えられる必然的な時間と、

絵画自体に施された例えば人物の動きなどの「時間」の要素が組み合わされば、より鑑賞者独自の解釈を呼び起こすものになると考えた。

 

これはダンサー東海林靖志と、直接ダンスを描き写すというセッションを行い、その下書きを元に描き進めた。

500m美術館vol.30「思考するドローイング」|「in motion / 線」鉛筆、ペンキ、アクリル、キャンバス

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