500m美術館vol.30「思考するドローイング」

<開催概要>

会期|2019年7月13日(土)〜10月2日(水)

時間|7:30〜22:00

会場|札幌大通地下ギャラリー500m美術館

住所|札幌市中央区大通⻄1丁目〜大通東2丁目

(地下鉄大通駅と地下鉄東⻄線バスセンター前駅間の地下コンコース内)

主催|札幌市市⺠文化局文化部文化振興課

企画|CAI現代芸術研究所/CAI02、一般社団法人PROJECTA

 

<出展作家>

植村絵美、大内りえ子、小林知世、玉山拓郎、富樫幹、永田塁、林匡宏、平山昌尚

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「in motion / 線」鉛筆、ペンキ、アクリル、キャンバス

コンセプト:

ある一定の大きさを越えた横長の画面というのは、それだけで鑑賞者が時間をかけて見ることになるという特徴がある。

部分から部分へ視界を移動させて全体を把握することになる。

時間を使うという点では音楽や映像、アニメーションなどに近い特性を得られる。

しかし受動的にでも入ってくる音楽やそれらとは違い、

抽象絵画が特に有する、鑑賞者の能動性とともに成立するものという特徴は画面の中に留める。

小さな絵の中でも目を動かして見たり、

音楽を能動的に聴くことも当然あるが、

この場合は必然的に絵画を時間軸のもとに鑑賞するものになる。

この鑑賞者に与えられる必然的な時間と、

絵画自体に施された例えば人物の動きなどの「時間」の要素が組み合わされば、より鑑賞者独自の解釈を呼び起こすものになると考えた。

 

これはダンサー東海林靖志と、直接ダンスを描き写すというセッションを行い、その下書きを元に描き進めた。

・ステートメント:

ドローイングについて

 

ドローイングとは線を引くこと、とある。

線を引いて作られた絵をドローイング作品というのだろう。

ドローイング作品において線というのは、作者の直接的な軌跡で、呼吸にも近い生々しさ、鮮度が感じられることが魅力になり得る。

よって線的に残された「筆致」が主体となっているものがよりドローイング作品らしい、と言える。

 

この作品はどうだろう。

 

制作過程の中で、一手目の線は活き活きしていてドローイングらしかったが、

既に二手目に手直しされ、整頓され、すっかりその活力を失い、絵画を構成するためのただの線になった。

しかしその代わりに、手直しの役目を担った白を中心とする、直すための「筆致」がドローイングの要素になった。

それは、ある面においての最後の筆致が当然一番鮮度が高いため、あえてドローイングと言おうとするとそこがドローイング的と言えるような気もする。

 

 

そもそもドローイングとは境目が曖昧な言葉である。

デッサン、クロッキー、スケッチ、などが手法だったとき、ドローイングは行為そのものである。

一生懸命完成度を上げるより、「素(無意識)のわたし」が表されているか、がポイントとなる。

(昔母がよく友達と長電話をしながらメモ帳にボールペンでぐじゃぐじゃと「何か」を描き殴っていた。あれはドローイングであろう。)

 

よって、答えが提示されておらず、どこか気高く、作者の呼吸や身体性が直接的、感覚的に感じられる(と解釈される)ことで、

ドローイングはその言葉の響きも伴ってなにやらかっこよく、また安易に価値を上げる手段ともなっている。

 

 

唐突だがこれは芸術/アートとは何か、という問いに似ている。

 

イメージとしてドローイングは、線を引いたその一手目の「行為」としての線が感覚的で不完全で、よって意味ありげで、まさに作者の感覚的な軌跡として、重宝される。

 

 

一方芸術は、「では職人芸とは何が違うのか」などとなったときに、機能性を持たない、余白の”意味”などを擁するその不完全さによって殊更意味ありげで、

解釈は受け手次第、作者の感覚や意図をどう捉えるかという鑑賞側の感性も伴って成立する、明確な答えのない感覚的なもの、

などと見立てられることによく似ている。

 

 

ここでは、決して一手目ではないその線を主にして構成された絵がドローイングと言えるのか、

これはドローイングだ、ドローイングではなくただ線を扱っているだけだ、

むしろその線を形として整えている手直しの線こそがドローイングと言えるのではないか、

などかなり曖昧なその答えを見出そうとする様相を反映して、

ドローイングという言葉を用いた「芸術/アート」なる言葉への問いとして提示する。